【7月28日(日)CEC活動報告】
<参 加 者>4名(男性2名 女性2名)内田さん・小枝さん・藤堂さん・小野
<活動時間>10:00~11:35
<活動形態>Zoomミィーティング
近況報告は、今回が二度目のご参加となる藤堂さんの、生後3か月のお子さんとの日常から。早朝3時頃には、決まって目を覚ますわが子の育児は時間との闘いで、ご自身の体力と相談しつつ、英語の勉強を続けてみえるご様子が目に浮かびました。そんな中、過日「ピアノジム」という玩具で遊ぶお子さんが、「爪先でキーボードを叩くと音がなる」機能に注目。それまではランダムに手足をばたつかせていたのに、その後、音を鳴らそうと意図的に足を動かす様子を見て、赤ちゃんの持つポテンシャルに驚かれたとのことでした。ちなみに、ピアノジムのキャッチコピーは「日本語と英語で楽しめるバイリンガル知育玩具」。それに違わぬ効果が期待できそうです。小枝さんはまず、3日後に迫った岐阜高島屋の閉店に言及。地域とともにあった柳ヶ瀬のシンボルが、また一つなくなることへの郷愁を話されました。私もこの件には関心があり、デパ地下の名物大判焼き(御座候)の「食べ納め」をしようと出かけたところ、待ち時間90分の行列の前にあえなくギブアップ。週末ばかりか、連日の盛況ぶりに、結局家族との思い出の味の「食べ納め」はかないませんでした。内田さんのアドバイスの通り、大阪に出かけた折は、大阪高島屋の御座候で“みやげ”を購入しようと思います。小枝さんはもう一つ、持病のタブレットが変わったことにもふれられ、自覚症状なしに忍び寄る生活習慣病のたいへんさを具体例とともに話されました。さらに、患者が食事制限の目的で使用すべきタブレットが、昨今はダイエットや食欲抑制などの目的で、医師の処方箋なしに、オンラインで広く販売されている実態を聞きました。思いがけないところで、オンラインの話題が出て、いつものようにその功罪を痛感しつつ、「予防に勝る治療なし(Prevention is better than cure.)」もまた実感しました。内田さんは、「日本語講師」としてのルーチンが軌道に乗り、落ちついて授業を進められ、今は「エクストラ(extra)」の工夫を試行錯誤されてみえるご様子でした。一定のレベルまではルーチンでクリアできるが、「その先」となると、「エクストラ」が必要ではないかとお考えでした。私自身が中学校現場で考えていた一つのエクストラは「宿題」。宿題の質と量、とくに、「質」は学習内容の定着を大きく左右すると考えていました。私が長年愛用したのは「マンダラート」「マインドマップ」。前者は大リーガー大谷翔平選手が「夢実現シート」として使用していたことで一躍脚光を浴びました。後者は学習教材だけではなく、教師間の自己啓発用ツールとしてもシェアを依頼。ミーティング内容を広げ深める際に活用しました。他教科でも学習教材として活用してくださる同僚もあり、その実践交流ができたことは双方にとって実に有益でした。両者は見た目が似ていますが、その活用法においても共通点が多く、そのメリットに気づくと、手放せないツールとなります。それを中学生向けのツールに落とし込み、計画的、継続的、発展的に指導すると、とかく槍玉に挙げられがちな宿題が「義務(have to do)」から「欲求(want to do)」にシフト。授業と宿題とがリンクし、それを教室でシェアすることで、室内の雰囲気はどんどん高まり、学習内容も確実に定着していきます。自身の指導の柱となる「エクストラ」の構築は、指導スキルはもちろん、指導への自信の拠り所になると私は思います。小休止をはさみ、「鈍感(insensitibity)のイメージ」を交流すると、小枝さんが「中学時代の同級生から聞かれた興味深いエピソード」を話されました。雨により、教室で行うことになった体育の授業で、先生が切り出された話の中に、他者と上手に折り合い、生きにくい社会を生き抜くためのスキルとして「鈍感力」があったとのこと。そのご友人は「おおらか(easygoing)」「ありのまま(just the way she is)」「自然流(natural way)」などの言葉が似合う方だったそうですが、この話に触発されたわけではないでしょうが、長じて、夫君を苛立たせるほどの鈍感力を見せることもあったとのことでした。藤堂さんはどちらかというと、「ネガティブ」なイメージをお持ちで、辞書などでその意味を確認された際、そのイメージを強くされたようでした。周囲の人やことにあまり気が回らない、自分本位の言動をイメージすると、ネガティブな面がクローズアップされがちですが、ネットなどで心ない非難や中傷が日常化した昨今では、自身の心の安定を図るためには、それが必要な場合もあるともお考えでした。内田さんは、基本的にネガティブだと思うものの、「鈍感」と一口に言っても、目に余るものがある一方、いわゆる「天然」といわれる「愛すべき(lovely)」ものもあり、周囲との関係性において、いかに自分をコントロールできるかによるとまとめられました。「鈍感のポジティブ面&ネガティブ面」として、小枝さんはご自身のこれまでのご経験から、若いうちはそのみずみずしい感受性を大切に、周囲の言動に敏感になり、そこから多くを学び、自己確立をすべきだが、年月を経て、「これが自分」という自分の核ができたら、周囲の言動に過敏になることなく、「自分にとって大切もの」を峻別する必要があると話されました。その上で、物事を客観的に判断し、そこに優先順序(priority)をつけ、より適切な言動へと高めていく根っ子にしばしば「鈍感力」があるとまとめられました。藤堂さんは「情報過多」で「有形無形のおびただしいプレシャー」の下にある時代にあり、心ないコメントやレスポンスを意図的にスルーできるスキルが求められていると話されました。内田さんもこのご意見に賛成されるとともに、多くの意見に柔軟に対応していく一方、無益な情報には「鈍感力」を働かせる大切さを改めて強調されました。「鈍感になった方がよい場面(よかった体験)」としては、小枝さんが結婚後、義母との関わりの中で、積極的に多くを学ぶ一方、立場(妻、母など)が変わっていくうちに、自然と「鈍感力」を身につけられた過程を話されました。長い結婚生活で、家庭はもちろん、地域や社会との関わりを通じ、自身の思いや考えが、信念や生き方になっていく過程で、日々の些細なことや取るに足らない他者の意見に左右されない鈍感力を少しずつ身につけられ、今現在「自分」「楽しむ」をにフォーカスした生き方をされてみえるご様子には、人生の先輩としての一つの理想を見る思いがしました。さらに、災害をはじめとする不測の事態に備え、「遠くの親戚より、近くの他人」と心得て、近隣の方々と適切な距離感を心がけてみえる小枝さん。「知識」を越えた、豊かな体験に裏打ちされた「知恵」がそこにもあふれていました。内田さんは職場において、多くの情報が行き交う中で、自分に必要な情報とそうでない情報を日々峻別するうちに、いわゆる「右から左に聞き流す」ためのスキルを少しずつ体得され、それが「鈍感力」ではなかったかと回想されました。私は「ルーキーイヤー(rookie year)」に周囲の同僚から「日教組加入」を強く進言された折、大いに「鈍感力」を働かせました。「教師として白紙」の自分が、いきなり組織の原理原則に染まることをよしとしなかったのです。「自分の目で観て、耳で聴き、心で感じ、体で学ぶ」。それが教師としての自分の真の学びだと考えていた私にとって、周囲の思いや考えは尊重しても、それに踏み込むという選択はあり得ませんでした。内田さんに「もし、日教組に加入していたら、小野さんは(組織にありがちな過剰適応により)鈍感になっていたかも」と指摘され、得心するとともに、後々の教師生活で「自分ファースト(自身の教育信条を最優先)」を貫くことができたのも、すべてはこの「初心」にあったと再認識しました。藤堂さんは、体調不良で、過日のCECをキャンセルされた例を挙げられ、周囲の人たちへの迷惑を気にしすぎることがあるが、仕方がない事情がある場合、そこは「鈍感」になって、先のことを見据えなければといわれました。彼女に限らず、若い世代にありがちなことですが、とりわけ、思慮深い(considerate)な方は、周囲に対して多くを想像しがちです。しかし、実際は「周囲は何とも…」としたもので、すべては杞憂にすぎないものです。また、その方のふだん(普段・不断)を見聞きしている周囲はそのままきちんと受容してくれるものです。すべては「平生往生」と考えた方がいいと私は思います。ちなみに、CECは「思慮深さ」においても最高のメンバーのみなさんにご参加いただき、私としては、「鈍感力」を発揮せずとも、自然体でサークルを運営できるので、いつも深く感謝しております。「鈍感にかかわる名言」では、小枝さんから「人々の取るに足らないことへの感受性と最も大切なことへの無感覚は、奇妙な障害の兆候です(Man's sensitivity to little things and insensitivity to the greatest things are marks of a strange disorder.)」が出され、日常的に、事の軽重を深く考えず、目先の些末なことにとらわれがちな人間の愚かさを実感しました。藤堂さんは「目先のことに鈍感になれ(Be less sensitive to the effect of things. Focus on things just before your eyes.)」。小泉純一郎氏が、時の安倍晋三首相に送ったアドバイスを紹介されました。この名言はノートに書き留められ、ご自身の指針にもしてみえるそうです。内田さんは「木を見て、森を見ず(can’t see the wood for the trees)」にならないような生き方の根幹に「鈍感力」があるのではないかという独自の見解を話されました。それは「木(部分)にとらわれて、森(全体)を見ることを怠る」ことで、「木(≒些末)に汲々としていては、森(≒本質)に出会うことはない」という戒めだと私は思いました。私は今日までの人生経験、とりわけ、教職にあり、「鈍感とは自分のゴールとスタイルへの集中」という人生哲学を得ました。昔から「教育に答えなし」といわれますが、何事も多様化が叫ばれる今、その傾向に拍車がかかっています。しかし、「答えがない」から「すべてが答え」「何でもあり」では、教育界は混乱をきたすばかり。そんな中、百花繚乱の教育論、教育法、教育談義に反応していては、自分の目指す教師としてのゴールはもちろん、教師としてのスタイルも定まりません。そうならないために、自分にゴールやスタイルを見定め、雑事には思い切って鈍感になる覚悟が必要だと私は常々思っていました。「ほっといてくれ男(Mr.MYOB(Mind Your Own Business))」と揶揄されたこともありましたが、自分のゴールとスタイルに邁進できたことが、納得できる成果の源だったと言っても過言ではありません。「鈍感を漢字で」では、「知恵(小枝さん)」「技(藤堂さん)」「操(内田さん)」がそれぞれ出ました。人生の局面で、環境が変化するたびに、少しずつ自己を確立しつつ、周囲を俯瞰する知恵を得られた小枝さん。生活上はもちろん、インターネット上の諸々を通じ、その対応策(countermeasures)を技として模索してみえる藤堂さん。相反する二つの感性「感受性(sensitivity)」と「鈍感力(insensitivity)」とのバランスを取りながら、自分を操る必要性を強調される内田さん。そのすべてが、日々の自分自身の内面的な対話のくり返しにより、周囲との適切な距離感を作っていく大切さを教えてくれています。一方、私の考えた漢字は「均」。さらに、「鈍感力を高めるための3つのステップ」として、「均衡(balance)→均質(homogeneous)→均整(proportioned)」を考えました。「均衡」とは「周囲から思いも寄らない言動を被ることがあっても、回復力(resilience)を発揮して、心身のバランスを保つ」。「均質」とは「自分のゴールやスタイルを尊重しつつも、それを支える周囲の声や、異なる考え方でも、自分を見つめ直すきっかけとなる言動には寛容に向き合い、全人的な発達を目指す」。「均整」とは「均質からさらに踏み込み、自分にとって、最も美しいゴールやスタイルを整える」。この3つが好ましく循環できてこそ、独り善がりではない「鈍感力」が身につくのだと私は思います。予想に違わぬ楽しいチャット後のフィードバックでは、小枝さんが藤堂さんの感受性、思慮深さを「心臓に毛が生えていないナィーブさ」と形容され、そんな感覚と縁遠くなって久しい、現在の自然体の生き方と鈍感力を重ね合わせてみえました。