Chatty English Circle

"Chatty English Circle" の活動予定&活動報告を紹介しています。

9月8日活動報告

【9月8日(日)CEC活動報告】

<参  加  者>4名(男性2名 女性2名)内田さん・齊藤さん・小枝さん・小野

<活動時間>10:00~11:30

<活動形態>Zoomミィーティング

 初対面の齊藤さんと小枝さんの個々の自己紹介後、打ち解けた雰囲気でスタートできた前回。近況報告では、スリランカ出身の生徒さんたちへの日本語授業が一段落し、「登録日本語教師」という新たな資格に向けて始動された内田さんのお話がメンバーの関心を引きました。できてまもない、試験に向けたリサーチが不可欠の資格に、少なからずご苦労がおありのご様子でした。「日本語教員資格」とは少し異なる資格ですが、今後さらなる需要が見込まれる日本語教師市場においては、資格を含めた制度的見直しが不可避で、当面はその過渡期になりそうです。トピックに入り、まずは「親のイメージ」を交流。小枝さん(diligence)、内田さん(responsibility)齊藤さん(affection)、小野(mirror)が出ました。小枝さんは「日本の伝統的な父親」と前置きされた後、仕事に打ち込み、その“後ろ姿”でわが子を育ててみえたお父さまと、同様の価値観で夫を支え続けたお母さまから、有形無形の生き方を学ばれてきたとのことでした。折しも、日本は「高度経済成長期」の最中で、国民の多くが「勤勉の先には明るい未来がある」と確信していた時代。ご両親の教えを国家も陰に日向に後押ししていた面はあったようです。内田さんはご自身が親となられた際に自覚された「責任」こそ、親の親たる所以だと話され、「教育」は言うに及ばず、日常生活全般におけるわが子の立ち振る舞いへの指導や支援の必要性を指摘されました。齊藤さんはご両親には待望の一人娘だったこともあり、厳しさよりは寛容性の下で育てられたとのことで、子の主体性を慈しむ親の愛情の大切さを強調されました。私はとくに学校現場で、少なからぬ保護者に「(わが子が)どうしてこんな子に?」と聞かれた際、しばしば「ご自身の胸に手を当てて考えてください」という心の声が聞こえたことが忘れられず、「子は親の鏡」とさせていただきました。子どもの問題の所在をいつも外に求める。「友だちが悪い」「学校が悪い」「地域が悪い」、挙句は「社会が悪い」。自身の足元を見直すことをせず、問題の核心に目を背けていては、子どもは何も変わらない。そうした遠回りが、子どもをだめにしていくことはしばしばです。「子育ては自分育て」と心得て、すべての子どものありようを「自分を映す鏡」として謙虚に受容し、さらに自身が「よき鏡となり、子どもを映そう」と決意したとき、子どもは少しずつ、しかし着実に成長するものだと私は思います。さらに、親とは異なる、プロの立場で「よき鏡」であることが教師の仕事だと私は考えていました。「親との関係性」については、小枝さん(honesty)、内田さん(distance)、齊藤さん(praise)、小野(self-reliance)をキーワードに挙げたいと思います。時代遅れに見えても、安直な時流に乗ることなく、勤勉性(diligence)を核とした自身の信念に生きた父親から、一貫性(persistance)とともに、正直さ(honesty)を学ばれた小枝さん。ときに頑固であれ、その筋が通った(make a lot of sense)の言行で、「正直は最良の方策(Honesty is the best policy)」を相伝されたお父さまは、親としての最大の務めを果たされたのではないでしょうか。今日までのご両親との関係を「まずまず(not so bad)」といわれ、その秘訣の一つとして「絶妙な距離感(reasonable distance)」を挙げられた内田さん。いわゆる「スープの冷めない距離(老親世帯と子世帯の、近すぎず遠すぎず、適当な距離での『別居近住』)」と同様、年齢や環境の変化に応じた、親子間のほどよい距離感は、昨今の日本社会においても大切な問題でしょう。「小さな達成(例:25メートルが泳げるようになった)」にも最大限の賞賛を惜しまず、「ほめて伸ばす」を実践されていたご両親から、ポジティブな思考&行動の大切さを学ばれた齊藤さん。子ども自身が気づかないような小さなよさを見つけてほめる。ご両親のわが子を思う豊かな感性に学ぶとともに、小さなよさだからこそタイムリーにほめる。「賞賛こそ最大の賞(Praise is the best prize.)」を実感しました。私の場合、中2の夏、塾の月謝をくすね、3カ月ほど夜の繁華街(柳ヶ瀬)で遊んでいた話を以前に紹介させていただきましたが、親子ともども学校に呼び出された後、自宅では父からの「これからどうするんだ?」「月謝袋を自分で(塾の)先生に渡しなさい」の二言でクリアしてしまった例でもわかるとおり、よくいえば、「独立独行(self-reliance)」、悪くいえば、「放任(non-interference policy)」だった気がします。共働きだった両親は、私の思春期に長患いをしていた祖母のこともあり、日々多忙を極め、私の育児どころではなかったと思います。さらに、当時の私の状況を思うと、少々のことをしたところで“焼け石に水”的な面もあり、とりあえず静観していたのではないかと、親になって思いました。一方、何をしても、大事(おおごと)にならないのをよいことに、かなりマイペースな日々を送っていた私でしたが、「見捨てられ感」はなく、「見守られる感」がずっとあったのは、わが家の親子関係の特異性だったといえるかもしれません。「親子間の思い出や親からの教訓」では、個々の親子関係を映し出すようなお話をいただきました。小枝さんは40歳のとき、思いも寄らない病気をされた際の、お父さまのそれまでに見たことがないほどに心配されてみえた様子が、今も心に残ってみえました。とともに、多くを語ることなく、ポンと5万円を手渡されたことに痛み入ったとのこと。父親としてのそれまでの自身の面目を保ちつつ、病と闘うわが子へのとめどない気持ちをどのように表したらよいか。熟慮の末に託したお見舞金は、父娘双方にとって、この上ない心の絆の証になったことでしょう。「よーく考えよう、お金は大事だよ」という某保険会社のコマーシャルではありませんが、お金の使い方にはその人が表れます。自分だけでなく、相手にも、さらに、周囲にも価値あるお金の使い方ができることが、豊かな人間関係、ひいては、豊かな人生の礎になっていくものだとしみじみ思いました。内田さんはお父さまが常々口にされていた「進学志向」が、ご自身の進学はもちろん、日々の学習習慣、ひいては、生活習慣をかたどっていたことを述懐。親が自分の生活体験などをもとに、わが子への願いを語り続けることの大切さを語られました。齋藤さんは駅の階段で困ってみえた身体障がい者の方に気さくに駆け寄り、「何かお手伝いできることはありませんか?」とさり気なく声をかけてみえたお母さまに接し、ふだんから自分が親の言行から感じていたことが、こういうところで自然に出ることに感動され、「自分の中にもそんな気持ちを」と今日まで心がけてみえたことを話されました。「子は親のいうことは聞かないが、親のすることは聞く」といわれますが、「率先垂範(lead by examples)」に勝る教育はないと再認識しました。みなさんが個々の感動に満ちたエピソードを紹介された後、私のエピソードを話すことは少なからずためらわれましたが、これが真っ先に思い出した思い出だったので、改めて紹介させていただきます。中2の4月末、家庭訪問当日、私は1年生から持ち上がりの担任だったS先生の車中にあり、近所の同級生宅を案内。自分の順番となり、意気揚々と玄関を開け、奥の母を呼びました。既知のS先生を前に、穏やかな表情の母と先生の和やかな会話が続き、私はこの家庭訪問がリラックスムードの中、ハッピーエンドで終わる様子が目に浮かび始めていました。その瞬間、そんな私の心中を察したかのように、先生が突然私に言いました。「修司、何で私がまた担任になったかわかるか?」。唐突な質問に先生の真意を測りかね、とっさに見た母は、すべてがわかっているかのような、相変わらずの穏やかな表情。直後「他の先生たちが、『S先生、お願いします』と頼んできたからだ」と低く、つぶやくような先生の声。その答えに呆然とする私を尻目に、母はまったく表情を崩すことはありませんでした。さらに、4月中の私の校内外における望ましくない言行が続き、先生はすべてお見通しだと痛感。私の口はどんどん重く、先生の口はどんどん軽く。最後に「ゴールデン・ウィーク中はおとなしくしとけ」と釘を刺されました。先生がわが家を後にしても、私はしばらく、その場から立ち上がる気持ちさえ失せていました。一方、母は何事もなかったかのように、入院中の祖母のもとへ再び出かけ、夕方まで戻らず。夕食時、家族が揃ったところで、家庭訪問の話が出ましたが、「2年生もS先生でよかったね」と朗らかに語る母を苦々しく見つめる私に、父は十八番の一言。「で、これからどうするんだ?」。「来年(の担任に)は絶対にこんなことはい言わせない」と私。その様子を見ていた母は最後に一言。「来年もS先生だったらいいね」。これに類するやりとりはまだまだあり、その多くは私の身から出た錆とはいえ、私たちの親子関係をよく表している気がします。「親にかかわる名言」では、「蛙の子は蛙(Like father, like son.)小枝さん」「子どもはいくつになっても子ども(内田さん)」「親ガチャ(齊藤さん)」「子どもには(親の)贈り物よりも存在感が必要だ(Your children need presence more than presents.)小野」が出ました。「蛙の子は蛙」については、「所詮、蛙の子は蛙」と考えては身も蓋もありません。親の諸々が子に影響を及ぼすことは確かですが、親以外の要因や環境が子に及ぼす影響も鑑みるべきでしょう。もちろん、親が「蛙の子は蛙」と開き直るなどは論外。たとえ蛙だとしても、「どんな蛙であるか」「どんな蛙になるか」が、子の最大の指針になるのですから、内田さんが冒頭でいわれたように「責任」こそ全うすべきでしょう。「子どもはいくつになっても子ども」については、家庭はもちろん、兄弟姉妹の数や状況によっても少なからずちがいが出ます。それが親の折々の生き方や考え方と密接にリンクし、親子の距離感が生まれては変わっていくことを、内田さんの親子関係をベースに意見交流しました。小枝さんは年月を経て、子の意見を最大限に尊重している自分に気づくとともに、「老いては子に従え(You should make way for the new when you get old.)」という諺の意味を感じ始めてみえるとのことでした。「親ガチャ(生まれてくる子どもは親を選べない)」はスマホゲームのガチャに例えた日本のインターネットスラング。昨今の子どもたちを取り巻く苛酷な家庭環境を見聞きすると、「子に罪はないのに」と心が痛くなることがあまりに多く、この種の言葉が瞬く間に浸透していく日本の社会的背景には言葉にならない閉塞感を感じざるを得ません。少子化に加え、親ガチャによって、かけがえない日本の子どもたちの未来が失われては、日本の未来もまた失われます。私としては今ほど「親が親であるべき時代はない」と思うのですが。「子どもには(親の)贈り物よりも存在感が必要だ(Your children need presence more than presents.)」を私は深い感銘とともに読みました。一時の喜びを与えるプレゼントよりも、永遠の思い出を授けるプレゼンスを。「プレゼンス(presence)」を「存在感(existence)」としたのは、昨今の親子に個々の存在感があまりに希薄だと感じるからです。スマホのような「個を分断するツール」の出現がそれを後押ししていることは確かですが、親子であれば、とりわけ親はその存在感を子に明示すべく、わが子への声かけ、働きかけを積極的にすべきです。「スマホ子育て」はもちろん、子育ての過度の外注などは、ネグレクト(neglect)ではないかと私は思います。子どもは小さければ小さいほど、というより、小さいうちから、親は自身のプレゼンスを確実にして、子の未来に生涯かかわっていける心の拠りどころを作っておかなければなりません。親になったら、いつも「三つ子の魂百まで(As the boy, so the man.)」を心に刻んでおきたいものです。「親を漢字で」は「礎(foundation)小枝さん」「愛(love)齊藤さん」「4つのしん(小野)」。個々が考えた漢字には、個々が育った家庭、ここを育てた親のあり方が色濃く反映されていました。「礎」「愛」は車の両輪のごとし。子どもを強く、優しく育てるためには、親には基本的に「礎を構築するための厳しさ」とともに、「優しさを醸成するための愛」が求められます。そのどちらが欠けても、真の子育てはできません。家庭が最小の社会であり、親が最大の大人であるべきだと考えると、「礎」「愛」に込められた小枝さんと齊藤さんが考えてみえた「親」のあり方は、アプローチの仕方はどうであれ、表裏一体(two sides of the same coin)といっても過言ではないでしょう。私は「親」の音読み「しん」に注目。「しん」につながる漢字4つを「子のためになる親のサイクル」として、「信(trust)→真(sincerity)→芯(core)→進(progress)」と紹介させていただきました。まずは「信(わが子の言行を信じる)」。それはもちろん、わが子を盲信するということではありません。責任を持ち、わが子を育て、自分を信じると同様に、わが子を信じる。換言すれば、自分を信じられないような親に、真の子育てはできないと考えます。次に「真(わが子に真っ直ぐに向き合う)」。これは信あれば、自ずとついてくるのではないでしょうか。さらに「芯(わが子に伝えたい芯を持つ)」。付和雷同ではない、確固たる自分の生き方があれば、そこに根づく芯があり、それを子に伝えることは、親の務めではないでしょうか。成長の過程で、より多くの考え方にふれ、自身の価値観を獲得していく子が、親の価値観を踏襲するとは限りませんが、少なくとも、一つの価値観として、親の折々の思いや考えを伝えていくことは、子の未来に必ず生きていくはずです。最後に「進(わが子に親の折々の進歩を見せる)」。子育てに答えはないといわれますが、一つはっきりとしていることは「子どもはあなたのようになっていく。だから、子どもがなってほしい人間に、あなた自身がなればよい(Your children will become what you are; so be what you want them to be.)」。この自明の真理を具現するためには、親は常に進化を(求め)続ける個であるべきです。「進」はさらに「新」にもつながり、「新」こそが魅力ある「親」そのものではないでしょうか。一方、「しん」につながる漢字4つで、「子をだめにする親のサイクル」として言及したのが、「臣(retainer)」「振(waver)」「侵(invasion)」「辛(rough)」。みなさんはどう思われましたか?