Chatty English Circle

"Chatty English Circle" の活動予定&活動報告を紹介しています。

2月25日活動報告

【前回(2月25日)CEC活動報告】

<参  加  者>3名(男性2名 女性1名)小枝さん・徳丸さん・小野

<活動時間>14:00~15:30

<活動形態>Zoomミィーティング

 前回CECのトピック「断捨離」について、冒頭に小枝さんから追加情報が。2007年「朝日ウィークリー」紙上に登場し、世間の注目を浴びることになった「断捨離」。元々は「シニアが、とくにその終末期に向かい、精神的、肉体的、経済的にどのように備えるか」をテーマにしていましたが、年月とともに、その定義は広がり深まり。今では、話し合いでも出た通り、世界的な“danshari”になりました。「言葉は物事を定義する」とともに、一度定義され、定着した言葉はときに、その広がり深まりとともに、新たな定義を生み出すものだと実感させられました。一方、小枝さんの近況報告では、新たに興味深い「言葉の転換」についてうかがいました。経緯は割愛しますが、娘さんの義母の呼び名を、従来の「お母さん」から「K子さん」にシフトされたとのこと。それによって、何かが変わった実感はこれからのようですが、呼び名が変われば、関係性が変わることはしばしばあります。男女の関係でよくいわれるのは、多くのカップルがたどる「~さん(恋愛期)」「パパ(ママ)(子どもの幼少時)」「お父さん(お母さん)(子どもの少年期)」という呼び名が、カップルの関係性(≒役割)を変えていくということです。二人の関係が二人の絆になり、それが子どもとの関係から子どもとの絆に、さらに、家族の関係から家族の絆に。これは長きにわたるに日本人の慣習の一つといってよいでしょう。一方、とくに「英語圏」では、結婚や子どもの誕生にかかわらず、カップルは生涯にわたって、お互いを「ファーストネーム」で呼び合うのが通例だといわれます。この「男女の呼び名」の慣習の違いは「言葉の違い」に止まらず、個々の文化的背景の違いと密接に関わっています。「家族」「役割」を核とした「日本式」と、「個人」「アイデンティティ」を核とした「西欧式」。善し悪しではなく、それぞれの伝統と文化が、こうした慣習の隅々にまで行き渡っているといえるでしょう。「呼び名」といえば、私が思い出すのは「先輩」と「先生」。大学2年で空手道部の「先輩」と呼ばれる立場になったとき、中高生時代の先輩とはまったく異なる感慨がありました。まずは、後輩には常に「目標」とされる存在でありたい。そのために、試合ではとにかく「結果(勝利)」を出したい。その一念でした。稽古には一層力が入り、後輩に舐められることのないように、緊張感ある立ち振る舞いができるようになりました。「見栄」「痩せ我慢」といえば、それまでですが、「先輩」という「役割」を得たことで、自然に襟を正せたことは、私にとっては、いいことの方が多かった気がします。もちろん、「食堂で後輩と一緒になったら、後輩の食事代は支払っておく」といったありがたくない不文律もあり、いいこと尽くめというわけにはいきませんでしたが…。さらに、「先生」と呼ばれる立場になったときは、生徒はもちろん、年上の方々にそう呼ばれることとなり、「経験もなく、海のものとも山のものともつかない若輩者の自分ごときが」と畏れ多い気持ちでいっぱいで、大きなプレッシャーでした。

 

【前回反省と今後のCECに関する提言】  

 令和5年元旦、岐阜新聞に「折り込み」の特集が。その見出しは「燃え尽きぬドラゴン」。今年、没後50年を迎えた不世出のアクションスター、ブルース・リー唯一のハリウッド映画「燃えよドラゴン」をもじったものです。前回はその型破りな人生の軌跡(≒奇跡)をたどりながら、「香港の札つきのストリートファイター」だった彼が、人種差別を始め、多くの偏見が渦巻くアメリカ社会、とりわけ、過酷な競争の最中にあるハリウッドで、一世を風靡するとともに、今もその名を世界中に轟かせている背景に垣間見られる、彼の哲学の一端について語り合いました。最も話題になった一言は「水になれ、友よ(Be water, my friends.)」。ここでリーがいう「水」とはどういう意味か。四季と自然に富む日本は水に恵まれ、日本人にとっての水はありがたい味方です。洪水などの自然災害で牙を向くこともある水ですが、豊かさの象徴である水を抜きにして、日本社会を語ることはできません。では、リーが述べている「水」とは? この背景となっているのは「老荘思想(Taoism)」。「人間は無為自然に、水のように天地自然の中で生かされる」という哲学を学び、実践したリーは、水のたおやかさを自身の武道はもちろん、生き方の核に据えています。一方、苛烈なサバイバルレースを勝ち抜くために、水のように器に自分を合わせるだけではなく、周囲や古い慣習を打ち壊してでも、自身の野望を実現していく激しさを、水の無限のエネルギーに例えたともいえるでしょう。いずれにせよ、半世紀を経た今も色褪せないリーの魅力は、外面の血沸き肉躍るアクションではなく、内面からにじみ出る哲学ではないかとも思われる今日この頃です。