Chatty English Circle

"Chatty English Circle" の活動予定&活動報告を紹介しています。

2月25日活動報告

【2月25日(日)CEC活動報告】

<参  加  者>4名(男性2名 女性2名)内田さん・酒井さん・長瀬さん・小野

<活動時間>10:00~11:30

<活動形態>Zoomミィーティング

 何をおいてもおめでたい酒井さんの進路決定からスタートしたCEC。報告される酒井さんの口からは、新たな決意あふれる、若々しいお言葉が続き、改めて本当によかったと一同笑顔になりました。私自身、気にはかけていながら、自分に経験のない大学院受験。想像できないデリケートな問題であり、ただ心の中で祈るのみでしたが、酒井さんのさらなる清々しさに接し、持ち前の勤勉さが院でさらに花開くものと確信しています。オリエンテーションはオンライン、アバターも登場。早速に大学時代とは一味違う大学院生活をスタートされているようですが、何事も経験。次のステージに向かい、実りある新生活に期待しています。私は自分への「お年玉プレゼント」として購入した「75インチテレビ」とのエキサイティングな日々をお話しました。友人宅の居間で見かけた同サイズのテレビ。よく「テレビは部屋の大きさに合わせた購入を」みたいなことがいわれますが、彼の自宅の居間にどんとかまえるテレビはダイナミックながら、何一つ違和感なし。さらに、見るほどに、室内を優雅にしてくれていることがわかり、私は「令和6年正月は大型テレビ三昧」を期して、購入を決意。結論からいえば、私には大正解。とくに、撮り貯めた洋画の字幕、また、スポーツ中継の迫力、You Tubeでのお気に入りなどを見ていると、数時間があっという間。かつての“テレビっ子”が“テレビおやじ”になって帰ってきた感じです。画面の迫力は室内をいつもシアターのように彩ってくれて、心はゆったり。ただ、慣れは怖いもので、購入当初の感激は少しずつ薄れており、「今度買うときは85型」などと思ったりしています(まちがっても、家族にはいえませんが…)。例会では「個性」についてのイメージからスタート。キーワードとして、equality,difference,advantage,uniqueness,originality などが挙がり、そのすべてがポジティブで、互いに尊重すべきものというイメージでした。酒井さんは、しばしばステレオタイプでとらえられがちな「大阪人」を例に、その同質性を認める一方、個々の家族はもちろん、その属する集団や環境、さらにその組み合わせにより、「個人の数だけ個性がある」ことを具体的に話されました。私は「個性(individuality)」をその語源なども踏まえ、「個人と切っても切れないもの(=impossible to divide)」と考えているので、少し何か、どこか変わっている程度で「個性」と騒ぎ立てる風潮には疑問を感じています。それは個々の人間(性)の核となるもので、その人を最も特徴づけるものであり、隠そうと思っても、知らず知らずのうちにあふれてしまうようなものだと思います。また、「個性(individuality)」と「適合(conformity)」は軽重つけられるものではなく、「共存(coexist)」できるものという意見でまとまりました。一方、時代や教育などによる意識の差があり、昭和世代は「適合(集団)あっての個性(個人)」という意識が今も強い気がしました。そこに「昭和の学校教育」の影響が色濃く出ていることは明らかで、話し合いでは個々の学校時代の話でけっこう盛り上がりました。酒井さんは、中学校(管理教育)から高校(自由教育)では急激な変化に見舞われ、高校入学時は学習へのモチベーションを一時見失うほどだったそうです。多くの点で、教師からの「上意下達」がメインだった中学校と異なり、校則なども生徒で話し合うなど、「上意≒生徒の自主性」だった高校は、中学時代の拘束から一気に解放された酒井さんには、その自由を享受し、自身の個性を発揮するには少し時間を要したようです。それでも、当時少しずつメディアに取り上げられ始めたLGBTの流れを汲むかのごとく、「制服自由化」を享受する生徒たちをごく当然のものと感じられた彼女は、当時の「個性感覚」においては、時代の最先端だったのではないでしょうか。一方、大学空手道部で「適合」を越えた「ヒエラルキー」に過剰適応していた私は、学校現場に入り、いきなり「個性推進」の先導役となり、本当に戸惑いました。まず自分が「自己表現」できる主体として、生徒の前に立つ。幸い「英語科」は「コミュニケーション」というコンセプトを浸透させていく過渡期にあり、私はその流れに乗って、教科を通じ、自身の個性を磨いていきました。23の春の自分から想像もつかない自分になれたのは、仕事を通じ、「個性」という言葉の意義を周囲の人たちと追い求めつつ、よき人、よき環境との出会いを重ねてこられたからです。この齢になり、そのありがたさを思わずにおられません。とはいえ、21世紀初頭に「個性化教育推進校」に勤務した折り、「個性発揮」をあまりに強力に推進したためか、少なからぬ生徒がそのプレッシャーに萎縮していたことも思い出されます。「個性と没個性」は紙一重で、「個性と適合」のバランス感覚は不可欠です。また、某学校では「自分勝手(selfishness)」を「個性」と言い張る生徒、さらに、その保護者に辟易とさせられたこともありました。個性は尊重されるべきものですが、バランス感覚を著しく欠いている人が少なくない昨今、「社会規範(social norm)」などの歯止めもまた不可欠。個性を集団との共存共栄はやはり難しい面もありますね。それでも、長瀬さんのご意見にあった通り、SNSなどの「自己表現」の場が広がった昨今、個性を埋もれさせていくには惜しい時代となりました。できれば、社会還元や社会貢献にもつながるような心豊かな個性が広がっていけばと思います。「個性を漢字一字」にすると、内田さん(創)、酒井さん(多)、小野(独)が出ました。さらに「創造(creativity)」「多様性(diversity)」「独立(independence)」をイメージ。私は「独自(originality)→独特(speciality)→独立(independence)」を「個性獲得3ステップ」として紹介させていただきました。今回も個々の経験も交え、楽しくチャットできました。